日々の出来事

日々の出来事を綴ります。

内田樹『邪悪なものの鎮め方』

夜中から読み始めて、途中ホトトギスやハト、ウグイスの声をBGMに読みふけり、さっき朝5時、一気に読み終わった。久しぶりの読書による完徹。すごく、すがすがしい気分だ。


この本を読んでいると、こんな話を思い出した。


個人的な話になるけれど、私は、自分自身に対して無根拠に持っていた「私は何があっても大丈夫」という「安全神話」を失うという経験を何度かしている。その強弱によって、様々な影響を被ってきた。その影響が強く出た時にうつ病も発症した。


今は、抗うつ薬を飲みながらずっと続けているフルタイムの仕事に通うという日常生活を送ることができているけれども、家から出ることができなくなったことだってある。だから、自分自身への自信って、すごく大切なものだと思っている。それが無根拠であろうが根拠に基づいていようが。


その昔、私は長い間自分は危険を嗅ぎ分ける力、自分にとって災厄を避ける力、不適切な人をかわす力、邪悪なものを寄せ付けない力と同時に、自分にとって必要なものを見極める眼力や周囲の人の状態を適切に把握する能力が備わっていると思い込んでいた。


それが、そうではない事。世の中には圧倒的に不合理な出来事やどうしようもない出来事があることを、短期間のうちに重ねて思い知ることになった。
そうして、不思議にそういう出来事は、その後も何度も、短期間のうちに重ねて私のもとにやってくることになった。
あの、牧歌的なまでに自分の強運さを信じ込んでいた昔の自分の振舞いを今考えると、よくぞ生き残っていたと思えるものもある。でもその頃には、自分に自信があり、切り抜けた出来事はただその自信を強めてくれただけだった。


数々の経験の後である今、私は自信を失い続けている。それは例えばこの本の著者である内田先生が使用されている「邪悪なもの」から自分の身を護る自信を失ったのである。「邪悪なもの」からだけじゃない、どんな社会の中でも、いつでもどこでも大人としてふるまう自信も、カオスやパニックが起こった状況の中で最善の道を見極めて行動できる自信も、そして、自分自身の人を見る目についても、自信を失った。


そんな風に自分について整理していた。
とにかく今は、著者の思考をなぞっていきたいと思う。
何か、自分に対しての大切な視点を得ることができそうな予感がするのだ。


さて、著者が「邪悪なもの」と遭遇してなお生き延びるためには「ディーセンシーと身体感度の高さとオープンマインド」が必要なこと、また、「聖なるもの」と「邪悪なもの」はその本態においては同一物であり、人間の側に十分な霊的な備えがあれば、「邪悪なもの」を「聖なるもの」にカテゴリー変換することができるらしい、と書いていた。
私にはまだ実感がないが、覚書しておく。

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