日々の出来事

日々の出来事を綴ります。

そうして私たちは作られている。ー『正欲』を読んでー


自宅から見えた夕暮れの写真です。


『正欲』を読んだ。浅井リョウさんの本は初めて読んだ。(ネタバレあります㊟)。


私はここで描かれている人の中でどの人に近いのだろうとまず考えた。
社会の中に上手に自分の居場所を作ることができないタイプという分け方をすれば、夏月や佳道、大也に近いかもしれないけれど、三人ほど社会に対して恨みを抱いていない。
「多様性」という言葉が連れてきてくれるかもしれない何かに期待している点では八重子に近いような気がするけれど、八重子ほど行動できるタイプではない。
検察官という常に「正義」が語られるような特殊な職業を持っている啓喜の中にも、自分と近い考え方を見いだすことがあった。
どの人の中にも自分を感じ、けれどもぴったりと自分だと仮託できる人は一人もいなかった。


淋しい読後感だった。
小説が描き出した結末は、田吉に代表されるような「俗悪」と呼び捨てたくなるようなものたちが何の自己改変も伴わずに自分にとっての理解不能な他者を切り捨てる構造だった。多様性がもてはやされても、結局は彼らがマジョリティであるかのように。
そう私が感じるのは、田吉の子どもが被害者になり検察官である啓喜に話す内容からだけではない。
ネット社会になり、私たちが何の苦労もせずに目にすることができるようになったネットニュースなどの書き込みの内容ーおそらくそれらが「俗悪」なマジョリティを形成しているーがほぼ冒頭に書かれており、それはネットニュースだけではなく、もう少し品良く形を変え、テレビのニュースにもなるだろう、ワイドショーの特集で取り上げられるだろうことを容易に想像できたからだ。
そして私たちは、日々作られているのだ。私たちは。


そう、「俗悪」な田吉の中にも私は私を見出した。田吉を「俗悪」として切り捨て遠ざけておけないほど、私自身の中に田吉はいる。自分の狭い了見では理解仕切れない物を異物として排除し、自分を守ろうとする意識がある。ただ、田吉ほど自分以外の他人に広めようという意識がない、人を積極的に傷つけおとしめようとする意識がないという違いがあるだけだ。佳道があの日気づいたように、自分の不安を「多数派」でいることで払拭しようとする意識がある。


淋しい読後感だったけれども、救いは描かれていた。「繋がり」の中に。
結晶ともいえる夏月と佳道の繋がりの中に。可能性を込めて大也と八重子の中に。
でも、「繋がり」はいつも危険と隣り合わせだ。繋がりを求めたことで、佳道も大也も犯罪者になりさらし者にされた。それも現実なのだ。


さて、私に何ができるのだろうか?と思う。
「正欲」を読んでしまった私に。社会とうまく繋がれないと思っている私に。
それでも、何かをしなければならないと思う。何かをしたいと思う。

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