日々の出来事

日々の出来事を綴ります。

内田樹『常識的で何か問題でも?反文学的時代のマインドセット』

著者は古今東西にわたりすごく博識だから、その思考についていけているかどうかは、正直に言って私の場合かなり怪しい。だから、特に後半の政治の時事問題になるとただ読むだけで私自身の思考は停止し受動的になっていた。情けないですね。


さて、前半には興味ある内容がいろいろあったが、特に印象に残ったことが二つ。
「私たちに求められているのは自分の知らないことについてその真偽を判定できる能力なのである」という視点と、「どうしていいのかわからないときに、どうしていいのかわかる能力をどうやって開発するか?という論件」という視点である。


どうも、どちらも著者は答えを持っており、それと著者の身体論とがつながっているらしいのであるが、この本の中では答えは与えられなかった。
著者のどの本を読んだら、その辺りがわかるのだろう?
早く著者の意見を知りたいと思った。


さて、今平行して太宰治の『駆込み訴へ』を読んでいたから、「戦時下、太宰の文学的抵抗が見せたもの」は面白かった。以下、引用する。


「戦争する社会では、すべての言葉の意味は一意的に確定され、言葉には多義性が許されない。だが、太宰は、戦時下という本質的に反文学的な大気圧の下でかえって文学の本質をわしづかみにしてみせた」「戦争に真に反対できるのは「個別性と複雑性」の原理だけだと私も思う。それは「私が何ものであり、私が何を言いたいのか」を誰にも決定させないという太宰の文学的抵抗のうちにひとつの理想を見出すことである。文学に一票」


そして、いつも思うことだけれど、著者の圧倒的な博識さと思考力を前にすると、自分の無学さと浅はかさが悲しくなった。

坂口安吾『桜の森の満開の下』


初めて読んだのは20代初めの頃だったか。

その頃から、この本を読むと、一人の綺麗で賢い友人のことを思い出してしまう。


急いで付け加えるが、その友人は決してこの小説の女のような人物ではない。

だけど、この小説から、人殺しの要素を綺麗に洗い流したら、ひどくロマンチックな話なのではないか?と私は感じている。


山に暮らす山賊にはおそらく学はない。

けれども、ひどく感受性は豊かだ。

ただ山賊はその感受性を表現する言葉をもたず、また感受性に重きをおくどころか自分から追い出そうとしているきらいがある。


一方、女は自分に正直で欲望に忠実だ。

そして、どんなことをしても、その美しさ故なのか、山賊を惹きつけてやまないのだ。


その友人も、そんな人だった。

結構、自分がしっかり確立していて、それ故に若い私は、彼女からたまに冷たさや付き合いの悪さ、ずるさや自分本位さをまざまざと受け取っていた。けれども、それを加味しても友だちと思うくらいに彼女は魅力的な人だった。


ある日彼女と話していると、坂口安吾が好きだと言われて、思わず私は言った。


私、桜の森の満開の下がすごく好きなんだけど、読むといつも○○ちゃんのことを思い出してしまうの!


そう意気込む私に、彼女はすごく素敵な笑顔で


本当?坂口安吾好きだから、すごく嬉しい!


と言った。

でも、よくよく考えると、この小説は、血生臭い小説でもある。

私が、その血生臭さを綺麗に捨てて読んで、ロマンチックな話だと思っていることは、終ぞ彼女に話すことはなかったのだ。

これは、すごい、失言ではないだろうか?


さて、この小説は何度読み返しても私が受け取っていることをうまく言葉にできずもどかしい思いにさせる小説である。そしていつも私は言葉にすることを諦めるしかない。今日もそうだ。


それはまるで、桜や都などについて何かを思っていても言葉にすることもできず、自分から外に追いやろうとした山賊になった気分になる。


やっぱり、坂口安吾って、すごい人だ。

宮沢賢治『セロ弾きのゴーシュ』

あまりにも有名な宮沢賢治『セロ弾きのゴーシュ』ですが、これまで読んだことはありませんでした。


読後の第一の感想は、ひどく乱暴な本だなあということ。
ゴーシュが動物たちに対してひどく冷たく乱暴なのです。
それに我慢しながら読みました。


ひたむきな努力と動物たちとの不思議な関係、その動物たちの与えてくれる示唆が、ゴーシュを上手なセロ弾きに変えてくれたのでした。
と、いうお話だけではないのではないか?と思うような奥行きのある解説しきれない物語でした。宮沢賢治という小説家について、とても興味を持つきっかけを与えてくれました。賢治の故郷にも行ってみたいと思いました。