鮮やかな記憶
早起きしてタブレットの前に座り、浮かんでは消えてゆく様々な光景に心を寄り添わせていると、
もう30年近く前のことなのに、昨日のことよりも鮮やかに思い出される記憶にたどり着いた。
不思議だ。
それらの記憶はどちらかというと私の中で封印されたものたちだったからだ。
いや、他の記憶とは違いある瞬間に、凍結されたとでもいえるような記憶だからだろうか。
倉敷に旅行したこと。鳴門にゼミ旅行と言う名の親睦を深めるための旅行をしたこと。
その、一瞬一瞬が、ふいに思い出された。
そこにいるのは彼女だ。もうこの世にはいない心の友だ。
心の友とは、赤毛のアンの中に出てくる言葉で、アンがダイアナをそう呼んだ。
私たちは出会った頃、よく赤毛のアンの話をしていた。
彼女は、アンに描かれている共同体の描写が、まるで自分の共同体を描いているようだと言っていたっけ。
そうだ、当時は映画が公開されたり、アンに注目が集まっていた頃だった。
私は…そう私は、アンが幼い頃からの自分をよく知り、好敵手でもあったギルバートと家庭を持つことに憧れをいだいていたっけ。
彼女は、そういえばあまりアンにそれ以上の思い入れはなかった。
私は、そのうちまわりの人たちに愛されていくアンに憧れていた。
彼女は、もっとスペシャルな関係を望んでいたような気がする。
私は…、私はもっとまわりの人と溶け込み、愛されたかった。アンのように。
彼女は私がはたちの時、21歳の若さで旅立ってしまった。
私がもっと長期的な視点を持つことができれば、あるいは彼女は亡くなることはなかったのかもしれない。
けれど私は幼く、自分のことも彼女のことも抱えきることができなかった。
また、あるいは、阪神大震災が起きなければ、彼女は自分の共同体に帰ってしまうこともなかったかもしれない。
それは、くりごとか。
彼女について考えると、いまだに私はくりごとが多い。