日々の出来事

日々の出来事を綴ります。

夢の中で


自宅から見える山の様子です。


今日気づいたのですが、最近私はいつも夢の中で、迷子になっています。

シチュエーションは様々ですが、昨日は知らない旅先の旅館の中で部屋へ帰る道を見失い

ものすごく広い館内を歩き回って探していました。

中には、アスレチックのような場所もプールのような場所も通って、非常に険しい捜索でした。


ネットで簡単にできる夢占いによると、将来設計を見直すと良い、とありました。

今は今の職場の仕事を十全に全うできるようになろうと地道に努力しようと思っていると思っていたので、

そんな夢を見ていること、その夢にはそんな意味があるかもしれないことに戸惑っています。


とにかく好きなことがわからないので、掃除をしたり片付けをしたり、

昔好きだった読書をして文章を書いたりして、人生の再出発(?)を図っているのですが、

まだうまくいっていないのかもしれません。


夢からのメッセージ、少し考えてみたいと思います。

街とその不確かな壁


『街とその不確かな壁」を読んだ。
感動するのでもなく、涙を流すのでもなく、ただ読みながらも読み終えてからも圧倒され、呆然としていたというのが近い気がする。
すごく長いお話だったし、すごく難しいお話だった。
一回通して読んだだけでは大事なことが分からなかったような、そんな心配な気持ちになる小説だった。


『街とその不確かな壁』は、いろいろな読み方ができると思う。
村上春樹もあとがきで書いているように、それこそ、「街と、その不確かな壁」や『世界の終りとハードボイルと・ワンダーランド』から読み解こうとすることもできるだろうし、そのほかの村上作品から読み解くことも楽しいだろう。
だって、「一人の作家が一生のうち真摯に語ることができる物語は、基本的に数が限られている。我々はその限られた数のモチーフを、手を変え品を変え、様々な形に書き換えていくだけなのだ」そうだから。
でも、今回私は、どんなに失敗してもどんなに傷ついてもどんなに打ちのめされても、今を、自分の現実を、生きていく力のようなものをこの小説から感じ、それを受け取ったような気がしている。


今年の四月に発売されて以来、ずっと読めずに机に置きっぱなしだったこの小説を読むきっかけになったのは、津村記久子の『水車小屋のネネ』を読んだことだった。
現代の小説家としての津村記久子が描き出していた世界観と、現代の小説家としての村上春樹が描き出す世界観を比較して捉えてみようと思ったのだった。だけど、この両者は書こうとしているものがあまりにも異なっているので、その視点は読んでいる途中で諦めた。
津村記久子の小説が現実の過酷さを描いているとしたら、村上春樹の小説は心的現実の過酷さに寄り添って描いているから、といえるかもしれない。そのどちらもとても現代的で大切な視点だと私は思っている。


ちょっと面白かったのは、生年月日から曜日を言い当てる彼の話。
私の施設にもそういう利用者さんがおり、彼そっくりで思わず微笑んでしまった。
ついでに村上春樹本人の生年月日から曜日を検索してみると、私も村上春樹も「水曜日の子供」であることが分かり、その点でも微笑んでしまった。
村上春樹の筆力って、すごいのだと改めて感心した。


そのうち時間ができたら、『若い読者のための短編小説案内』や『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』などを参照しながらもう一度ゆっくりと読んだら何か私にとっての大切な発見があるかもしれないと思って楽しみにしている。

『街とその不確かな壁』を読み始める。


先日、朝靄がかかっていたので自宅から撮った近所の山の写真です。


村上春樹『街とその不確かな壁』を読み始めた。
4月の発売と同時に、というかAmazonに予約注文して購入した本だったけれど、何故か今日まで読みたいという気持ちにならず机に置いてあった。


大学時代には文学は専攻していなかった。どうしても村上春樹について研究したくて母校の大学院に入ったけれども、結局いろいろな意見がある中で自分が何を言うべきなのか分からなくなり研究生活から落ちこぼれたという過去が私にはある。
私は私にとって村上春樹とは何だったのか?という非常に個人的な疑問だけを持って大学院という研究世界に入ってしまい、論文もまともにまとめることができないまま修士課程を修了してしまった。大学院での勉強はとても楽しかったけれど、論文をまとめる研究はとても難しかった。


その後も村上春樹の著作は一通り目を通してきたけれど、だんだん私の個人的な疑問と村上春樹本人の書く物がズレてきてしまい、彼の本を読むことが楽しくなくなってしまった。
(近年では、『猫を捨てる 父親について語るとき』は好きだったけれど)。


今回そんな私が読んでみようと思い立ったのは、先日、津村記久子の『水車小屋のネネ』を読んだからだ。彼女の描くの世界に惹かれ圧倒され、そしてどこか怖れも感じた私は、もしそういうカテゴライズがあるとすれば、『水車小屋のネネ』はまさしく「純文学」なんだろうと感じたからだ。
『水車小屋のネネ』が単に優しい物語だと読めばひどく(こちらもそういうカテゴライズがあるとすれば)「大衆小説」的な小説だ。
ここで名前を挙げるのは控えるけれど、私も親しんでいる現代の女性小説家の小説には、そのような優しい物語はいくつも書かれていると、私は思う。


けれども、『水車小屋のネネ』はそれらとは異なったざらりとした読後感があるのだ。
読者である私自身の足下さえもすくっていくような、著者から難しい宿題を出されたような、そんな気持ちになるのだ。


そうして私は村上春樹の未読の、私自身の手垢のついていない小説を読んでみたくなった。そしてちょうど良く、『街とその不確かな壁』が机の上にあったという訳なのである。今の私が村上春樹の最新作をどう思うのか?それが知りたくなった。


一応急いで言い訳をすると、私は「純文学」と「大衆小説」の違いについて考えたことは一度もない。ここでそんな分類をしたのは、「良いものは良い(たとえそれが純文学であっても、大衆小説であっても)」と長いこと思い続けてきた私が、また、小説であっても映画であってもドラマであっても、その時の自分がアプローチすることができる物語だったら何でも享受してみたいし、その中から自分にとっての意味を見いだすことに喜びを感じている私が、『水車小屋のネネ』を読んで初めてその区別に思い至ったからだ。優劣ではない、その違いを。


仕事もあるし本をいつ頃読み終えることができるか分からないけれども、村上春樹の『街とその不確かな壁』を楽しんで読み、また感想を書きたいと思う。