日々の出来事

日々の出来事を綴ります。

『街とその不確かな壁』を読み始める。


先日、朝靄がかかっていたので自宅から撮った近所の山の写真です。


村上春樹『街とその不確かな壁』を読み始めた。
4月の発売と同時に、というかAmazonに予約注文して購入した本だったけれど、何故か今日まで読みたいという気持ちにならず机に置いてあった。


大学時代には文学は専攻していなかった。どうしても村上春樹について研究したくて母校の大学院に入ったけれども、結局いろいろな意見がある中で自分が何を言うべきなのか分からなくなり研究生活から落ちこぼれたという過去が私にはある。
私は私にとって村上春樹とは何だったのか?という非常に個人的な疑問だけを持って大学院という研究世界に入ってしまい、論文もまともにまとめることができないまま修士課程を修了してしまった。大学院での勉強はとても楽しかったけれど、論文をまとめる研究はとても難しかった。


その後も村上春樹の著作は一通り目を通してきたけれど、だんだん私の個人的な疑問と村上春樹本人の書く物がズレてきてしまい、彼の本を読むことが楽しくなくなってしまった。
(近年では、『猫を捨てる 父親について語るとき』は好きだったけれど)。


今回そんな私が読んでみようと思い立ったのは、先日、津村記久子の『水車小屋のネネ』を読んだからだ。彼女の描くの世界に惹かれ圧倒され、そしてどこか怖れも感じた私は、もしそういうカテゴライズがあるとすれば、『水車小屋のネネ』はまさしく「純文学」なんだろうと感じたからだ。
『水車小屋のネネ』が単に優しい物語だと読めばひどく(こちらもそういうカテゴライズがあるとすれば)「大衆小説」的な小説だ。
ここで名前を挙げるのは控えるけれど、私も親しんでいる現代の女性小説家の小説には、そのような優しい物語はいくつも書かれていると、私は思う。


けれども、『水車小屋のネネ』はそれらとは異なったざらりとした読後感があるのだ。
読者である私自身の足下さえもすくっていくような、著者から難しい宿題を出されたような、そんな気持ちになるのだ。


そうして私は村上春樹の未読の、私自身の手垢のついていない小説を読んでみたくなった。そしてちょうど良く、『街とその不確かな壁』が机の上にあったという訳なのである。今の私が村上春樹の最新作をどう思うのか?それが知りたくなった。


一応急いで言い訳をすると、私は「純文学」と「大衆小説」の違いについて考えたことは一度もない。ここでそんな分類をしたのは、「良いものは良い(たとえそれが純文学であっても、大衆小説であっても)」と長いこと思い続けてきた私が、また、小説であっても映画であってもドラマであっても、その時の自分がアプローチすることができる物語だったら何でも享受してみたいし、その中から自分にとっての意味を見いだすことに喜びを感じている私が、『水車小屋のネネ』を読んで初めてその区別に思い至ったからだ。優劣ではない、その違いを。


仕事もあるし本をいつ頃読み終えることができるか分からないけれども、村上春樹の『街とその不確かな壁』を楽しんで読み、また感想を書きたいと思う。

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