日々の出来事

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水車小屋のネネ


津村記久子さんの『水車小屋のネネ』を読了。
様々な難しい現実の中でもまっすぐに前を見て生きている素敵な人たちのお話だった。
(以下、ネタバレしないように書いているつもりですが、失敗してたらごめんなさい)。


その素敵さは、お話の中心にいるヨウムのネネを取り巻く人たちが、ネネを大切にしながら、丁寧に丁寧に自分の毎日を地に足をつけて生きているからかもしれない。
だって私は時折自分の人生をいいかげんに生きてしまっているし、調子に乗って生きてしまう時もあるし、うわついた気持ちで生きていることも多いけれど、彼らは違う。そんな要素はみじんも感じさせない。
自分にも他人にも誠実に生きようとしている。
それがいかに(私にとっては)難しいことかを思うと、ただ憧れてしまうのだった。
彼らは静かに寄り添いあい、その力を自分たちだけでなく他の人へ分配していた。
特別なこととしてではなく、当然のこととして。
そんな人、いるのだろうか?と思う気持ちもあるけれども、きっといるのだとも思う。私も出会ったことがあるような気がするけれど、私自身があまりにも彼らとかけ離れていて、彼らに気づけなかったし、彼らの中へ入ることができなかったのだと思う。残念ながら。


私はまだ「家族」というユニットにしがみついている。「国」という概念にもしがみつきたいと思っている。もっと言うと、「普通」という(おそらくは何の根拠もない)感覚に縛られている。
そんな私が『水車小屋のネネ』に憧れるというのは、それらがもううまく機能しない私の現実にどこか気づいているからかもしれないと思う。なぜなら、私は、結婚もしておらず子どももいない。高齢の両親はいずれ順当に行けば私よりも先に亡くなるだろうことが分かっている。私はしがみつくべき家族を近い将来失うのだ。それに、「○○国」「○○国人」「○○民族」という言葉が危ういことも知っているし、長年うつ病を抱えている私を「普通」と捉えてくれる人がいるとも思えないことを知っているからだ。私は結局何も持っていないマイノリティなのに、マジョリティだと勘違いしているのかもしれない。それは幸せなのだろうか?不幸せなのだろうか?


静かで優しい物語だけれど、かなり挑戦的な世界を描いているとも言えるのが、この『水車小屋のネネ』なのだと思う。彼らの強みは、自分が徹底的にマイノリティでしかないことを静かに、そして遺恨なくしっかりと受け入れている点にあるのだと思う。

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